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  • [創作短編]路地裏

    ハルは、その日もいつものように、寂れた商店街のアーケードの骨組みに止まっていた。ドバトである彼が、なぜこれほどまでに人間の営みに興味を持つのか、他のハトたちには理解できないだろう。彼らにとって、世界はパンくずと交尾と、時折飛来するカラスとの攻防で成り立っている。だが、ハルは少し違った。彼は、通りを行き交う人間たち、特に「路地裏の住人」と彼が呼ぶ若者たちの出す音、彼らがまき散らす奇妙な熱気に、ある種の魅力を感じていたのだ。

    路地裏の壁には、スプレーで意味不明な記号や、怒りにも似た文字が描かれている。ハルはそれらを、ハト同士の求愛ダンスのようなものだと解釈していた。つまり、彼らなりの「何かを伝えたい」という衝動なのだろう、と。

    今日もまた、その路地裏に若者たちがたむろしていた。彼らはみんな、同じような薄汚れたTシャツを着ていて、髪の色だけが信号機のようにバラバラだった。彼らが吸うタバコの煙は、ハルの羽を燻すには十分すぎるほどだったが、彼は動かなかった。彼らはいつも、意味もなく笑い、叫び、そして壁を蹴った。ハルには、彼らの会話の内容は理解できない。だが、彼らが発する音の「質感」は、よくわかった。それは、乾いた葉っぱが風に吹かれるような音ではなく、まるで古いモーターが錆びついた中で回っているような、どこかぎこちなく、苛立ちをはらんだ音だった。

    「なぁ、この町はクソだ」
    一人の男が、壁に寄りかかりながら言った。彼は、まるで喉に小さな棘が刺さっているような声を出した。ハルは、彼を「棘」と呼ぶことにした。
    話しかけられた方の男は、長い前髪で目を隠している。彼からは、いつもタバコと、諦めにも似た匂いがしていた。ハルは彼を「煙」と呼んだ。
    「ああ、クソだ」煙は短く答えた。「どこへ行っても同じだし、どこへも出られない」
    ハルは首を傾げた。出られない?空はどこまでも繋がっているではないか。飛んでいけばいい。彼らに羽根がないから、そんなことを言うのだろうか。

    彼らはよく、ギターという奇妙な形の木片を抱えていた。煙がそれを掻き鳴らすと、耳をつんざくような、しかしどこか胸に響くような音がした。それは、ハルが時折遭遇する、飢えた猫の威嚇の声よりも、もっと複雑な音だった。「死ね!クソッ!」と、彼らが叫ぶと、ハルの心臓はわずかに跳ねた。それは、人間が発する音にしては、あまりにも純粋な、怒りの塊だったからだ。

    ある日、一人の少年が路地裏に現れた。彼は、他の若者たちよりも少し幼く、そして目が澄んでいた。ハルは彼を「レンズ」と呼んだ。レンズは、他の若者たちが壁にスプレーで文字を書いているのを、じっと見ていた。やがて、彼は震える手で、ポケットから小さな石を取り出した。そして、その石で壁のコンクリートを掻き始めた。カツ、カツ、と小さな音がする。彼は、何かを懸命に、しかし不器用に書きつけようとしているようだった。

    「おい、何してるんだ」棘が言った。
    レンズは顔を上げず、ただひたすら石で壁を削っていた。やがて、そこには、歪んだ線で描かれた、奇妙なものが浮かび上がった。それは、人が両手を広げて、空を見上げているような絵だった。しかし、その人の頭には、まるで光の輪のように、いくつかの小さな円が描かれていた。ハルには、それが何を意味するのかわからなかった。だが、その絵からは、彼が以前に感じたことのない、「何とかしたい」という、切実な願いのようなものが伝わってきた。

    「なんだ、あれ」煙が言った。「聖者か何かか?」
    レンズは何も言わず、ただその絵をじっと見つめていた。彼の目には、絶望と、しかしごくわずかな、何かを信じようとする光が宿っているように見えた。ハルは、その絵と、その少年の姿から、彼らがただ怒っているだけでなく、何か別のものを求めていることに気づいた。それは、パンくずや交尾では満たされない、もっと根源的な、そして切実な渇望だった。

    ハルは、彼らが「クソな日常」と呼ぶものを理解できた。それは、彼が毎日見る、同じ商店街のアーケード、同じ時刻に通り過ぎる列車、そして同じように意味なく飛び回る他のハトたちと、どこか似ていた。ただ、人間には、それを「クソだ」と感じ、そして叫ぶことができる言葉と苛立ちがあった。そして、その苛立ちの先に、彼らは、レンズが描いたような、救いを求める聖者のような存在を、無意識に探し求めているのかもしれない。

    ハルは、その日も路地裏の若者たちを観察し続けた。彼らがいつか、その聖者を見つけるのか、それとも別の叫びを見つけるのか、ハルには知る由もない。だが、彼は、若者たちの奇妙な熱気と、どこか悲しい叫びを聞き続けるだろう。なぜなら、それが、この退屈な世界で、彼自身が唯一飽きずに続けられる、ささやかな探究だったからだ。そして、彼は知っていた。世界は、彼らが啄むパンくずよりも、はるかに広大で、複雑で、そして時に理不尽なものであることを。

    人間の、あまりにも人間的な感情の機微を、ハルは今日も、アーケードの骨組みから見つめている。

  • [創作短編]線

    新幹線の座席に深く身を沈め、私はふぅと息をついた。窓の外は、あっという間に景色が移り変わっていく。

    喪服が少し窮屈に感じるのは、きっと夏の熱気のせいだけではないだろう。

    十三回忌と、墓じまい。過去と現在、そして未来が、この時速300キロの箱の中で、ごちゃ混ぜになって私たちを広島へと運んでいく。

    ふと見ると、隣に座る祖母が、じっと窓の外を眺めていた。

    通り過ぎる景色は、祖母の目にどう映っているのだろう。遠い記憶の断片を拾い集めているのか、それとも、この旅路の先に待つ何かを静かに見据えているのか。

    その横顔は、多くを語らずとも、深い物語を秘めているようだった。

    広島駅に降り立った私たちを迎えたのは、真夏の容赦ない日差しと、そして、けたたましい工事の音だった。

    泊まったホテルからは、クレーンが空に伸び、重機が大地を穿つ姿がよく見えた。

    まるで、この街そのものが、終わらない物語を紡ぎ続けているかのようだ。

    法要を終えた翌日、私たちは大伯父の車に先導され、兄の運転で、ある場所へと向かった。祖父が設計したという「日本一長い電線」を見に。

    高速道路は、まさかの事故で通行止め。まるで、電線が私たちを試しているかのように、下道は大渋滞。予定より一時間遅れでたどり着いたその場所は、瀬戸内海の、まさに「青」が凝縮されたような景色の中にあった。

    大伯父の話によれば、その電線は、かつて毒ガスの実験に使われていたという大久野島に、戦後、祖父が今の私と同い年くらいの時に架けられたものだという。歴史の重さと、個人の物語が、一本の線で結ばれていく。

    晴れ渡った空の下、瀬戸内のきらめく海に、その鉄の巨神――鉄塔と、そこから伸びる電線が、とてつもなく美しく映えていた。

    「今は本稼働はしてないんだ。あとにできた橋と一緒に設置されてる架線が使われてる」大伯父はそう言った。

    「でもな、そっちになにかあったときは、この電線のほうが使われるようになってるんだ」

    まるで、予備の、けれど確かな「切り札」のように。過去の技術が、未来の可能性を秘めているという事実に、私は少しばかり感動した。

    本島側の鉄塔の元へ向かう。上り坂は、足腰の弱った祖母には少しきつそうだったけれど、誰もがその巨神に会うことを望んでいるかのように、皆で一歩一歩、足を進めた。

    間近で見る鉄塔は、まさに圧巻だった。

    その巨大な骨組みの中に、過去と現在、そして未来の物語が絡み合っているような気がした。

    そして、その鉄塔の間からは、遠く、対岸の鉄塔と、空に線を引く電線が見えた。

    私たちが今立っている場所と、もう一つの世界が、その線で繋がっている。

    高台からの景色は、さらに私たちを魅了した。先ほど通ってきた道が、海と一緒に眼下に広がる。

    私たちが歩んできた道、そしてこれから歩む道。全てが、この壮大な景色の中に包括されているかのようだった。

    広島駅に戻り、皆で食事を済ませ、それぞれの道へと別れた。JRの電車に乗り換え、9駅。宮島駅へと向かう。

    宮島へと渡るフェリーから見た景色は、またしても私の予想を裏切らなかった。

    旅館の部屋からは、あの有名な厳島神社の鳥居が見える。海に浮かぶその姿は、まるで絵画のようだった。

    夜、私たちは船で鳥居の近くまで連れて行ってもらった。その距離は、まるでそのまま鳥居をくぐってしまうのではないかと思うほどだった。

    漆黒の闇に浮かび上がるオレンジ色の鳥居は、昼間とは全く違う、幻想的な表情を見せていた。光と影が織りなすコントラストは、まるで時間が止まったかのようだった。

    翌朝、朝食前に厳島神社へと向かった。

    まだ鹿も人もまばらで、静寂が支配する時間。山と海と、そして鹿と鳥居が、まるで一枚の絵のように、完璧な調和を見せていた。

    ふと、思った。厳島神社の海側の狛犬は、いつも海の方を見ている。

    それは、この場所を見守り続けている証拠なのかもしれない。過去から現在、そして未来へと、静かに、しかし力強く、この地の物語を見守っている。

    祖父が残した「日本一長い電線」と、厳島神社の鳥居。どちらも、時を超えてそこに在り続ける存在だ。そして、その存在は、私たちの記憶や、未来へと続く物語の中に、確かに息づいている。

    広島でのこの三日間は、私にとって、単なる法事や観光ではなかった。それは、過去と現在が交錯し、見えない線で繋がり、そして、終わりのない物語が紡がれていく、そんな特別な時間だった。

    またいつか、この地を訪れる日が来るだろう。その時、この電線と鳥居は、私にどんな新しい物語を語りかけてくれるのだろうか。

  • [創作短編]胃袋の小石とカザミドリ

    コバルトはその名の通り、首元の羽がコバルト色に輝くハトだった。彼のトリ生は常に「胃袋の小石」に悩まされていた。

    朝食につい食べすぎてしまったパンくずが、午後に突然、彼の腹部に不穏な動きを引き起こすのだ。それはまるで彼の胃袋に小さく尖った小石がゴロゴロと転がっているような不快感だった。

    医者(町の広場にいるベテランのカラス、通称「博士」)は、「過敏性腸症候群だな。人間でいうところの。気にすんな」と、いつもそっけない診断を下す。コバルトはこの不調を「僕の胃袋アンサンブル」と呼んでいた。今日の演奏は、静かなソナタか、それとも激しいシンフォニーか。

    コバルトの縄張りには、妙なカザミドリがあった。それは、アパートの屋根に設置された、古びた鉄製のニワトリの形をしたカザミドリだ。風が吹くと、ギィギィと軋む音を立てて回る。

    コバルトは、このカザミドリを「無言の相談役」と呼んでいた。なぜなら、コバルトが胃袋の不調で電線の上でうずくまっていると、決まってカザミドリが、まるで彼の痛みに同調するかのように、ゆっくりと、しかし確かな方向を指し示すのだ。その方向はいつもなぜか、町で一番美味しいパン屋の方向だった。

    コバルトの心の中には、もう一羽、彼のトリ生に深く影響を与えたトリがいた。彼の従兄弟叔父、通称「逆さまのツバメ」だ。ツバメは生前、いつも逆さまにぶら下がって言っていた。

    「コバルトよ、空はな、逆さまから見ると、意外な真実が見えるもんだ。特に、お前の胃袋が騒がしい時はな」。

    そして、唐突に「そういえば昔この町で、すべての飛び立つトリが一度に止まった日があったな。私はその日、逆さまのまま、一日中空を見ていたよ」と、脈絡のない話をし始めるのだった。

    ある日の午後、コバルトは公園で、つい大きなパンくずの塊を食べすぎてしまった。胃袋はたちまちゲリラ豪雨状態だ。彼は慌てて電線に避難し、腹部を押さえてうずくまった。その時、彼の胃袋アンサンブルは、これまでにないほどの激しい不協和音を奏で始めた。まるで彼の胃袋が「今日中に何かを伝えねば!」と叫んでいるようだった。

    同時にアパートの屋根のカザミドリがギィギィと音を立てながら、いつもとは違う奇妙な方向を指し示した。それは、町のはずれにある誰も立ち入らない廃ビルの方向だった。

    コバルトは、胃袋の痛みに耐えながらも、カザミドリの指し示す方向へと飛んでいった。廃ビルの窓からかすかに光が漏れている。中に入るとそこは、なぜか大量のピカピカに磨かれた小石で埋め尽くされていた。そして、その小石の山の中で、一羽の老いたスズメが、何かを地面に埋めている最中だった。

    スズメはコバルトを見ると、驚いたように顔を上げた。そして彼の胃袋が大きく鳴ったことに気づくと、妙に納得したように頷いた。

    「おお、まさかここまでその胃袋の振動が届くとは。私はね、この町の小石を少しずつ埋めているんですよ。重すぎるでしょう、世の中の小石は」

    スズメはそう言って、コバルトの腹部をじっと見つめた。

    「君の胃袋の小石も大変そうだね。でもそれは、君がこの世界の小さな変化を感じ取るセンサーだということでもある」

    コバルトは、雷に打たれたような衝撃を受けた。彼の胃袋の不調は、単なる食べすぎではなかった。それは、彼がこの町の、あるいはもっと大きな世界の、目には見えない重さや変化を感知する能力だったのだ。

    従兄弟叔父の「逆さまのツバメ」の言葉が、今、全く別の意味を持って響いてきた。「空はな、逆さまから見ると、意外な真実が見えるもんだ」。コバルトの胃袋の小石は、彼自身の不調であると同時に、世界が抱える重さの象徴でもあったのだ。

    コバルトは、胃袋アンサンブルの最後の音を静かに聞き届けた。それは、痛みを伴う不協和音であると同時に、彼に与えられた、避けられない奇妙な才能の証明でもあった。

    彼は自分がただ胃袋の小石に苦しむハトではなく、むしろその小石を通して世界の奥底にあるものを感じ取る、世界の聴診器のような存在であることに気づいた。そして彼は、胃袋の不調と町の小さな秘密を抱え、新しい空へ飛び立つのだった。

    それからコバルトは、あの廃ビルに時折立ち寄るようになった。スズメは相変わらず小石を埋め続けている。コバルトの胃袋アンサンブルが激しく鳴ると、スズメは優しく微笑むのだ。「また何か感じたようだね」。

    コバルトは、自分の胃袋の小石が自分だけの問題ではないことを知った。それは、世界と彼を結ぶ、奇妙で、しかし確かな絆だった。そして彼は、今日も電線の上で胃袋アンサンブルの音色に耳を傾け、カザミドリが指し示す方向を眺めている。今日もどこかで、小さな不協和音が生まれているのかもしれないから。